「少女終末旅行」がすばらしかった
終わった世界を旅する
Amazon Prime Video に「少女終末旅行」が入っていたので,観てみた。
もっとも,最近になって追加されたのではない。けっこう前からあったような気がするし,さらに言えばアニメ化の話が出る前から気になっている作品ではあった。それがなぜ今に至るまで観ずにいたのかというと,物語にあまりにも救いがないと言われている作品だったからである。私事だが(そしてそういう些末なことばかり書くのがブログだが),ここ何年か切迫した状況にあったので,よその「終末」に首を突っ込むような余裕はなかった。何が良くなったわけでもないが,まあ,精神的な余裕は出てきたのかもしれない。
結果としては,この作品はまごうことなき名作だった。また,このタイミングで観ることができたことは幸せだった。
作中世界について
簡潔に作中世界の紹介をしよう。以後の話に関心がある人がいるとすれば既に観た人だけだろうが,私がどのような点に注目したかを示すことにもなる。
チトとユーリは10代半ばほどの少女であり,人類がほとんど滅びたあとの超未来都市群の廃墟を,わずかに残された食料と燃料を探し求めて彷徨い続けている。幾層にも覆い重なり天高く伸びるこれらの都市を構築したのは,もはや記録も失われた世界大戦で文明が失われるよりも前の人類である。高度な文明を失ったあとの人類は,なおもひとりでに動き続ける古代のインフラに身を寄せて,かろうじて文明を築いてきた。しかし人口は衰微し,とうとう無人の廃墟が残るだけとなった。2人が果てしない旅を続けてこられたのは,「古代人」が遺した設計図を元に作られた小型の軍用車両(半装軌車)ケッテンクラートに物資を積み込んで移動できたことと,脅威となるべき人も獣も既に存在しないためである。
いまや世界にヒト以外の生物の影はない。巨大な都市のどこを見ても,雑草の1本も,昆虫の1匹も存在しない。かろうじて,四角い芋や鱗のない魚といった,遥か昔に食料用として作り出された生物種が食料生産施設の中で存続しているが,それも施設が寿命を迎えるとともに滅びる運命にある。
食料はほとんど遠い昔に作られたレーションバーや缶詰のデッドストックだけで,燃料も都市に点在する補給設備に残っている限りである。ほかの物資もほとんど残らず,焚き火のための有機物さえ貴重な存在となっている。文明の残骸とともに,予定された破滅を待つばかりの日々を過ごしているのである。
そんな2人にも目標はある。「上」を目指すことである。2人はもともとずっと下の階層にあった集落に住んでいたが,まだ2人が幼い頃に戦争が始まった。破滅を前にして,2人を育てていた老人が2人にケッテンクラートと物資を与え,少しでも長く生きるために,「上」を目指すよう告げたのである。以来,2人はひたすら上の階層を目指してケッテンクラートを駆り続けている。いちばん上に何があるか,そもそも何かがあるのかもわからないが……
終わるまでは終わらないよ
タイトルから想像されるように,この作品は,古典的な「心地よい破滅 Cosy catastrophe」に位置づけることのできるものである。これは SF サブジャンルのひとつで,目の前にある世界の破滅を,さしあたりの安全は確保された環境から,どこか他人事のように観察するというものである。
もっとも,老朽化したケッテンクラートの上は決して安全な場所ではない。土壌も生物も失われ気候も厳しいため食料を生産することはできず,常に食料を探して進み続けなければならないし,生活が安定することもない。2人の日々はそれなりに平穏であるように見えても,結局のところ「終わり」がある――それもかなり近くに――旅路である。「終末」は人類とその文明のものであると同時に,旅をする2人自身のものでもある。まあエイリアンに付け狙われたりするよりはよっぽど安楽ではあろうが,2人の旅路は,決して「Cosy」なものではありえない。
しかし,一方で,2人は決して悲壮な死出の旅をしているのではない。ときには景色を楽しんだり,不思議なものを発見して面白がったり,2人でふざけ合ったりするような余裕もある。特殊な生い立ちゆえに「死」という概念を理解できていないように見受けられるとはいえ,待ち受ける運命が過酷なものであることは,おぼろげながらに理解している。それにしては,はなはだ気楽な態度である。
もうおわかりだろうが,この作品の破滅が Cosy であるのは,2人の世界認識が(奇妙にも?)そうなっているからである。しかも,それは単なるオプティミズムではない。突きつけられる死は,彼女らにとって苦しみではない。できれば避けたいものではあるものの,救済としての甘美な魅力も備えている(2人の理解によれば,死後の世界があるとすれば,それは暖かく明るいものである)。絶望は,いまや完全な死を待つ世界に生きる彼女らにとっては,希望よりも幸福なものである。一方で,いちばん上を目指すというさしあたりの目標があることもあって,2人は自ら死を選ぶつもりもない。エンディングテーマに「終わるまでは終わらないよ」というセリフがあるが,これは(意図してなのかはともかく)この2人の生に対する考え方を端的に表現している。まったくの消化試合,待ち時間となった残り短い余命を,はっきりと認識している「終わり」をとりあえず棚上げにして,それなりに楽しみながら過ごしているのである。いよいよ「終わり」が来たときが,この余興をやめるときだ。
これは決してヤケクソではないし,現実逃避でもない。どうしようもない現実を突きつけられた者が,ニヒリズムを脱して生を肯定するための唯一の道である。
絶望となかよく
ユーリはたびたび「絶望となかよく」するということを口にする。ユーリは一見楽天的で刹那的な性格であり,絶望とは程遠いように見える。しかし,話が進むにつれ,むしろ「絶望となかよく」していることこそが彼女の明るさの源泉であることがわかってくる。人は必ず死ぬ。自分も死ぬし,他の誰もが死ぬ。しかし,それの何が問題なのだろうか? ユーリによれば,終わりがあることが生きているということである。生を肯定するのであれば,死も肯定しなければならない。
以下漫画版ネタバレ注意!(クリックで展開)
アニメ版では描写されていないが,原作漫画版の最終回では,目指し続けたいちばん上には<何もなかった>。ケッテンクラートは途中で壊れ,重い荷物を背負って2人は歩みを進めた。生き残るために,チトは大切にしていた日記も本も燃料にくべて,ユーリは常に伴っていた銃を捨てた。いちばん上にたどり着くため,2人は10年近く旅を続けてきた。しかし,今までひたすら目指してきた場所には,何もありはしなかったのである。
2人でひとしきり遊んで,そのまま雪の中へ倒れ込んだ。ユーリは言う。「生きるのは最高だったよね……」最後の食料を分け合って食べ,2人はそのまま眠りにつく。肩に食い込む荷物をおろし,もはや身を切る寒さもなく――
ここまでお読みただいた方であれば,これがハッピーエンドであることはおわかりだろう。2人は最後の漠然とした希望を断たれ,とうとう完全に「絶望となかよく」なったのである。あるいは,既になかば予定していたのかもしれない――いったい,これ以上に幸せなシナリオがあるだろうか? 2人は最後の瞬間まで一緒だった。そして重要なのは,極限状態にあっても,食料を分け合い語らったことである。そして雪の中で,安らかに,決して醒めることのない眠りについた。あらゆる闘争に彩られた人類の歴史は,かくして崇高なものとして幕を閉じた。
死後の世界も,あるいは存在するかもしれない。過去何千年にも渡って,昔の宗教家たちはそんなことばかりを熱心に語ってきた。しかし,それだってどうでもいいことである。「絶望となかよく」なることができた者にとっては。翼を失ってただただ降りていく者にできるのは,ただ現状を受け入れて,その中で過ごすことだけだ。
フリードリヒ・ニーチェは終末とは対極の永劫回帰について論じたが,その語るところはよく似通っている。すなわち,究極的な生の肯定とは,運命をそのままに愛すことなのである(Amor fati)。ニーチェはまた,現実における希望は邪悪の中の邪悪であると言い切った。それは,人の苦しみを徒に長らえさせるためである("Dazu gibt er dem Menschen die Hoffnung: sie ist in Wahrheit das übelste der Übel, weil sie die Qual der Menschen verlängert.")。ついには発狂して死んだ彼もまた,「絶望となかよく」なることのできた者なのであろう。
光と音
なんだか妙な方向に向かってしまった気がする。<「少女終末旅行」がすばらしかった>というタイトルで書き始めた文章であるので,話を本題に戻そう。
「少女終末旅行」の魅力は,以上で見たような大胆な問いかけだけではない。表現としても洗練されたもので,およそ深夜アニメの域を超えている。
映像を見てみよう。新しい作品であるので 3D モデリングが目立つものの,その分,細部まで緻密に描き込まれており,人類史の重厚感を演出している(付言すると,たとえば「電脳コイル」ではテクノロジと生活の統合が重要であるためあの卓越した 2D の画でこそ輝くが,本作では過去の華やかなテクノロジと現在の滅びつつある生命を対比して描かれているため,3D アセットの違和感も不自然ではないようにも思う)。キャラも安定して自然に動く。もともと原作の時点で視覚上の表現が意識された作品であるが,緻密なカラー映像とともに切り取り方もブラッシュアップされ,一段と象徴的な画作りとなっている。構成についても,間合いが効果的に使われているため,冗長に感じる部分がない。毎話が最終回のような手の込みようで,一体どうして予算の限られた深夜アニメの枠でこのような作品を作ることができたのかは,古代の自律機械に訊くほかない。
「音」にもこだわって作られたという。たしかに,効果音もただ脚本の文字にあてたような単純なものではなく,写実的でありながら効果的に配されている。曲中のどの曲も本当にすばらしく,作中世界の美しさとおぞましさに身震いするほどだ。オープニングテーマ・エンディングテーマ・挿入歌はどれも卓越しており,これまたすばらしいアニメーション(エンディングはすべて原作者による制作である!)と相まって,何度見ても見入ってしまう。これらの曲は最初はミスマッチにも思えるが,仕掛けに気づいてしまってからは,まったくすばらしい取り合わせだとわかるのだ。
声優の演技にも注目したい。まず気づくのはチトの声で,押し出すようにしてやや不機嫌そうな声を出す中に,実に多彩な機微を表現している。この声が,画が写実的なアニメには心象風景を表現しにくいぶんを見事に補っている。対してユーリの声は初見ではアニメ的な平板さを感じるが,やがてそれも意図したものであることがわかる。たとえば,イシイが離陸したあとのシーンに注目されたい(やや脱線すると,ユーリの声についての演出は,ユーリ自身の心情をそのまま表現としているというより,いったんチトの認識を通したものであるようである。不思議に引き込まれるのは,この工夫によるところが大きいだろう)。登場人物が少ないだけあって,他のキャストの声もピタリとはまった妥協なしのものである。
類を見ない作品
この作品に興味のある人は,まずは一度観てほしいと思う。どんなアニメにも言えることだが,1話だけでは何もわからないので数話は観ると良い。各話はそれほど密接に関連していないため,途中から観てもよい。その場合,あえて挙げるなら,9話がよいだろう。これだけでもはや1本の短編映画である。
少し長くなってしまったが,「少女終末旅行」の魅力が多少なりとも伝われば幸いである。
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